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由比ヶ浜からの風  <最終章> 四季の流れる穂高川
     
    



              由比ヶ浜からの風

           最終章の始まり

          四季の流れる穂高川


月島の工房に環が住みはじめ、まるで半同棲生活のような奇妙な時間が流れていた。
僕が毎朝工房へ着く頃には、環はすでにバイトに出掛けいないのは分かっていたが、それでも環の存在を確かめるように二階へ上がった。
無味乾燥だった部屋はすでに環の温もりと残り香が充満し、まるで幸せの詰まった玉手箱のように変化していた。
そして心躍る思いで環の帰りを待つ。
まるで新居で旦那の帰りを待ちわびる新妻の心境だ。
その上、僕はバイクでの二人乗りはしない主義だったのだが、環の切望にそんな掟もなんなく破り、背中に環の温もりと息づかいを感じながらタンディムを楽しんだ。
そしていつしか物干し台には、コールマンのリゾート・チェアーが二つ置かれ、二人は夜風に吹かれながらグラスを傾けた。
そんな中、環は意欲的にガラス工芸の勉強を始めたのだが、もともと感覚も感性も豊かな環の集中力には眼を見張るものがあった。
環が初めて工房の二階に上がり、外光をふんだんに取り込み光り輝いていた僕の作品を見た時「綺麗!」とか「素敵!」などとおざなりの反応ではなく、黙ってなにかを確認するかのように心にしまい込んでいた。
今思えば、あれが環のガラス工芸に対する興味と意欲の現われであったのだろう。
しかし、そんな幸せな日々が数週間続いても、僕の心はどこか晴れてはいなかった。
それは、環が時折見せる表情にあった。
天真爛漫に装う環の心には今だ小さな風穴が開いているようで、僕の腕の中でも心がどこか遠くを見ている時があったからだ。
久木田を嫌いになり別れたわけではない環にとって、きっとその先には久木田が見えているに違いない。
僕と久木田の立場が逆転した今、僕はいつの間にか久木田に嫉妬し始めていることに気がついた。
久木田は、今でも環が去った理由を僕の存在だけだと思っているのだろう。
そして、環もあえて久木田には本当の理由を伝えてはいないはずだ。
それだけに、環の久木田の対する想いが残っているようで、日に日に僕は息苦しさを感じ始めていた。
「ね〜明日の夜は満月だって知ってる?」
その夜物干し台のデッキ・チェアーに座るなり環が空を仰いだ。
「ああ、仲秋の名月だろ・・・」
僕も物干し台に出ながら夜空を見上げた。
「うん、晴れるといいな〜・・・」
環は流れる雲間に見え隠れするる月明かり探していた。
そんな環の横顔を見ながら、このとき僕は環をつれて長野の安曇野に帰る決意をした。
東京という怪しげな不夜城に憧れ、一度は身を置いてみたが、それはまるで張りぼての映画のセットのような、欲と虚飾にまみれた世界でしかなかった。
それでも月島の川沿いに工房を作ることで、少しはストレスのガス抜きにはなっていたのだが、所詮は付け焼刃、僕はそんなまやかしにも限界を感じ始め、創作意欲にも影を落とし始めていた。
安曇野に帰れば、真夏でも爽やかな風に包まれ、穂高川のせせらぎの音は心を和ませ、雄大な北アルプスの山麓に広がる田園風景が、新たな創作意欲を掻き立ててくれるに違いはなく、そんな情景を環にも感じさせなければと思ったからだ。
しかし、そんな僕の思いを切り裂くように、次の日環は帰って来なかった。
隅田川の夜空には満月が輝き、川面はその光に揺れていた。
僕の脳裏には、髪をなびかせながら川辺に立っていた環の後姿が、まるで絵空事のように浮かんだ。
心のどこかで覚悟をしていたとはいえ、悲しみの深さが癒えるわけではなかったが、それでもなぜか環を追いかける気にはなれずにいた。
決して大人ぶったわけでもなく、勇気が無かったわけでもないが、所詮はひと夏の恋、そっとしておくことが環にしてあげる優しさのような気がしたからだ。
僕は環がこのまま連絡もせずに、跡形もなく消えてくれればと願った。
しかしそんな願いも叶わず、それから数日後環から電話がかかってきた。
「ごめんなさい・・・」
環は泣いていた。
「いまのコウちゃんを放っておけないの・・本当にごめんなさい・・あなたを傷つけてしまった・・でも私は速水さんのこと」
「環!いいんだ・・もういいんだよ分かってる」
と、僕は冷静さを保ちながらも環の声を聞いてしまった今、すぐにでも抱きしめたいとの想いから、思わず「会いたい!」と叫んでしまいそうな衝動を必死にこらえた。
環は、久木田が実家を継ぐ決心をしたので傍にいて欲しいと、泣きながら言ってきたことを話した。
僕は久木田が泣いて懇願したことを聞き、汚い手を使いやがってと、思わず僕も泣きの一手を使うかと頭を過ったが、すでに僕の頭の中は混沌とし、早く携帯をかなぐり捨てたい心境に陥っていた。
「じゃ〜元気でね・・」
僕は精一杯明るい声を張り上げた。
「・・・本当にごめんなさい」
環のすすり泣く声が胸を締めつけたが、気がつくとツ〜ツ〜ツ〜という無常な音だけが寂しく鳴り響いていた。

           
              最終章の終わり


四輪駆動の車を降り、サクサクサクと昨夜降り積もった新雪を踏みしめながら僕は新しい工房の引き戸を開けた。
工房は、運よく安曇野市の実家から車で40分ほどの農地の隅に建っていた古民家を借り、改装して灯油の窯を作った。
工房の中は深々と冷えていたが、窓から差し込む光がガラス細工にあたり神々しく乱反射していた。
僕は、その窓から差し込む眩い光を右手でさえぎながら窓辺に立った。
外は、モノトーンに変わった穂高の田園地帯が広がり、遠く雪化粧の北アルプスが連なる中、勇ましい常念岳が黄金色に光輝いていた。
刻々と変わる山肌の光は、厳かな平常心を育み、新たな息吹を僕の体に吹き込んでくれる。
月島の工房と広尾のマンションを引き払い、すでに半年が過ぎようとしていた。
工房の片隅では、愛車のヤマハSRが春の訪れを待ち焦げれ、そんなSRをみるたびに湘南の海が浮かび、月島で過した環とのひと時が走馬灯のように駆け巡ってはいたが、僕は決して悔いてはいなかった。
むしろ、環が安曇野に帰る決断を下してくれたようで感謝しているほどだった。
こうして安曇野の自然に包まれならが、僕は穂高川の四季をガラス細工に封じ込めることにした。
静まりかえった工房で、灯油ストーブとコーヒー・サイフォンに火をつけ、ゆらゆらと燃えあがる灯油ストーブの火を見ながら、頭の中に浮かぶ色彩をどう形に表すか試行錯誤していると、コーヒーサイフォンがブクブクと激しい音をたて始めた。
するとその時、カラン・カランと、入り口の引き戸に取り付けたカウベルが鳴った。
「はい!」
僕は慌ててサイフォンの火を消し、窓から外を覗いた。
すると入り口の軒下に、鮮やかなオレンジ色のダウン・ジャケットのフードを目深にかぶった人の姿が見えた。
僕はもう一度「はい!」と声を張り上げながらクモリガラスの引き戸を開けた。
その人はつぶさにフードを取り、鼻まで隠していたマフラーをはずすと「あの〜こちらの工房で働きたいんですけど、弟子入りさせて頂けないでしょうか!」
環は真剣な眼差しでイッキにまくし立てた。
その時僕の背中に、環の立てた爪の痛みが走った。

          FIN
                             上岡ヒデアキ

 
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由比ヶ浜からの風 <第五章> 夜風が秋はこぶ隅田川

        
                    


               由比ヶ浜からの風

                <第五章> 

                                         夜風が秋はこぶ隅田川


海が見たくてバイクのヤマハSR400に跨り、三浦半島の佐島マリーナ入り口にある佐島公園にやって来た。
ここはバイクを飛ばして来る僕の憩いの場所だ。
この日も、公園内の海に突き出た岩場の小さな芝生で、数時間海水パンツ姿で大の字になり、大海原からの風と紫外線をいっぱい浴び汗ばん体は、公園の手洗いでタオルを濡らして拭き、周りの視線を気にしながら海水パンツを脱ぎ捨てると、腰のポシェットに入れておいた新しい下着に履き替え帰り支度を整えた。
それでも真夏の昼下がり、またジーンズに足を通すのには嫌悪感が先立ったが、こればかりはバイク乗りの宿命ともいうべきもので仕方がない。
それでも上に着て来たアロハ風のシャツは腰に巻き、Tシャツだけになった。
公園内の砂浜には、小さな子供を二人連れた家族が一組増えていた。
赤いリボンと青いリボンの付いた大きな麦わら帽子をかぶった二人の子供の戯れる姿が、僕の遠い記憶を揺さぶり、逆光の中に長野の穂高川のせせらぎや、川面をつつく糸トンボの姿が浮かび上がり、哀愁をかきたてられた。
それにしても、最近たびたび安曇野の景色が脳裏をかすめる。
僕の作品に対する創造性や創作力を絶やさないためにも、都会を離れるいい機会なのかも知れないと・・・そんなことを考えながら佐島公園を後にし、木陰で佇む愛車のSRに息を吹き込んだ。
ズドドドッド゙ッ!僕は「オシ!」と気合を入れて跨ると、佐島公園を後にし海岸線の134号線への坂を一気に上がった。
しかしこの時はまだ、環が来ているだろう鎌倉の由比ヶ浜へは行くまいと思っていた。
134号線に出て左に曲がるとすぐに来たときの立石の信号だ。
そのまま帰るなら右にハンドルを切り、海岸線を後にすればいいのだが、僕のハンドルを握った手は動かなかった。
そのまま左手に広がる相模湾を垣間見ながら、ゆっくりと海岸沿いを北上した。
どうせ由比ヶ浜に行ったとしても、あの広い砂浜の雑踏の中で環を見つけることなど所詮ありえないし、もう少し海岸線をドライブしたかっただけだと自分に言い聞かせながら、長者ヶ崎を通り海岸線からは少し離れ葉山から逗子へと走った。
車は次第に増え、道路は大渋滞になったが、そこはバイクの特権、狭い路肩をすり抜け逗子を抜けると由比ヶ浜からの風を感じはじめた。
しかし、たとえあの広い海岸の雑踏の中で環を見つけたとしても、彼氏と一緒の姿を垣間見ていったいなんの意味があるのか、彼の顔見たいわけでもなく、ましてや彼に対して勝ち誇りたいわけでもないのに。
そんなモヤモヤと心が揺らいでいても、バイクを止めることなく鎌倉の海岸に出た。
材木座から由比ヶ浜まで長く広い鎌倉の砂浜は、海の家の旗やパラソルが海風にたなびく中、群集で埋め尽くされていた。
そして遠く水平線には、太陽をいっぱいに浴びた多くの白い帆が疾走し、真夏のパノラマを演出していた。
僕はバイクのギヤをローにし、右手でアクセルをコントロールしながら時折砂浜に眼を向けゆっくりと走り続けた。
材木座海岸を抜け、由比ヶ浜海岸に入ると視神経は過敏に研ぎ澄まされ、万が一の期待に胸の鼓動が高鳴りだしていた。
そして由比ヶ浜を半分ほど通り過ぎた時だった。
若者がが密集している砂浜の中央で、男達に囲まれた環らしき体形をした水着姿の女性が視界に入った。
僕は息を呑みブレーキ踏んだ。
そして、後姿になっていたその女性にくぎずけになったが、中々振り向いてはくれず、僕は10メートルほど先の広くなった歩道にバイクを止め、ヘルメットを脱ぎ砂浜を振り返った。
その時その女性が振り向いた。
なんと環に間違いなかった。
こんな広い海岸の雑踏の中で、それも走行中のバイクから環を発見できるなど、これは神のなせる業だと環との運命を感じるほどだった。
僕は胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくり歩道と砂浜の境界へ歩み寄ったが、環は20メートルほど先で行き交う人の波に見え隠れしていた。
水着姿の環は、まるでビーナスの彫像ように光輝き、僕の視界の中では、次第に周りの景色がおぼろげになり、環の姿だけが鮮明に浮き上がっていた。
そして、環に対する愛おしさがふつふつと沸きあがり「僕の方を振り向け!振り向け!」と叫びながら暫く佇んだが、その願いは届かずその場を離れようとしたその時だった、僕の願いを感じたように環が僕の方を振り向いた。
僕の視線に気がついた環は、一瞬豆鉄砲を食らった鳩のようにキョトンとしていたが、すぐに我に返り大きく右手を振りながら僕の方に駆け寄って来た。
「速水さん!来たんだ!」
少し日に焼けた環の笑顔が嬉しかった。
「ああ・・・」
僕は照れ笑いを浮かべた。
「よく分かったね!ほんと・・嬉しい」
環は顔をくしゃくしゃにして、僕に抱きつかんばかりに喜んだ。
しかしその時、後ろから近づいた男が、いきなり環の首を後ろから羽交い絞めするかのように抱きついた。
「やだ〜なにするの!」
環は眉間に皺を寄せ男の腕を振りほどこうとしたが、男はにやけた顔で環を離さず「どうも!バイクっすか?」と、僕が持っていたヘルメットを見ながら話しかけてきた。
「そう、偶然環ちゃんを見かけてね・・・」
「コウちゃん、は・な・し・て!」
環は男の腕を解き、彼を突き放した。
「もう〜コウちゃん、こちらは、ほら!お世話になっている貴恵さんのお友達で速水さん。速水さん久木田君です・・」と同棲相手と思われる男を僕に紹介したが、笑顔がどこかぎこちなかった。
環は佐々木氏の妻貴恵に久木田を紹介したことがあるようだ。
「どうも久木田っす」
久木田は少し茶髪だが、日焼けした端正な顔立ちで、優しく親しみを感じる笑顔を振りまいていた。
「あ〜どうも、じゃ〜僕は・・・」
僕はその場にいたたまれず、ヘルメットをバイクの方へ掲げながら逃げるようにその場を後にした。
「速水さん!きおつけてね!」
後ろから聞こえた環の声に、軽く手を振りながら振り向いたが、その時の久木田の視線が痛かった。
僕は二度と振り返らずバイクに跨ると、本来なら二人がいる逗子方面にUターンしたいところだったが、二人の視界から早く消えたく七里ガ浜に向けて走らせた。
稲村ケ崎を抜け、サファーでごった返す七里ガ浜海岸を走りながら、久木田がもっと外見から嫌な男だったら良かったのになどと、久木田に会ってしまったことを悔やんだ。

それから二日ほどたった夜、環から電話があった。
「・・・たまき」
消え入りそうな声で、環は泣いていた。
「どうしたの?」
「・・これから行ってもいい?」
「ああ、もちろん」
環の涙の原因は、僕が由比ヶ浜に行ったことで、久木田が僕と環がただならぬ関係になっていること察したのだろうかと、やはり由比ヶ浜に行ったのは間違いだったと、改めて悔いた。
それから一時間ほどで、環はサングラスをかけ大きなバックを手に現れた。
「今日泊まってもいい?」
僕は一瞬顔に怪我でもしているのかと心配したが、どうやら泣いて腫らした眼を隠してるだけのようだった。
「喧嘩になったんだ?・・僕のせいだね」
環は小さくうなずいた。
「・・・でもいずれいうつもりだったし速水さんのせいじゃないから・・・」
「ごめん・・・」
「謝らないで!海に来てくれたのは凄く嬉しかったんだから」
「彼、なんていってた?」
「・・・あんなおやじのどこがいいんだって」
と、環は少し笑顔になった。
「おやじか〜まあそうか・・」
「え!速水さんそんなことないよ」
環は僕の腕を掴みながら、慌ててフォローしてくれたが、確かにまだ30代とはいえ、彼らからすれば間違いなくおやじだと納得はしていた。
「なんだ、顔が笑ってるぞ!やっぱりおやじだと思ってたんだろう!」
「違うって!」
環は僕に抱きつきキスをしてきた。
そして何度も激しく僕の唇を奪い、環の弾力のある体に僕の下半身は敏感に反応し始めた。
「このまま上に住めばいい・・・」
僕は環の耳たぶを噛みながらつぶやいた。
「あ・う・・うん・・・」
環のかすれた声が漏れた。

その夜、物干し台から夜空を仰ぎ見ながら、環から久木田と別れる本当の理由を聞かされた。
久木田浩二は環のひとつ年下で、実家は塗装業を営んでいるが、一人息子なのに継ぐ気がないらしく、その上大学を出ても定職にはつかずにいるらしく、食費や家賃も環に頼っていたらしい。そんな甘えの強い久木田に、環は絶えられなくなってきたとのことだった。
優しい環は、自ら身を引くことで、久木田に成長して欲しいと考えたのだろう。
その日から、環は工房の二階に住みだした。
そして工房に住むことで新宿の夜のバイトはやめ、工房には少しずつ環の荷物が増えはじめたが、そんな光景が工房へ行く僕の楽しみにもなってきていた。
環は時折広尾のマンションにも来たが、広尾は女の匂いがするといって、あまり来たがらなかった。
確かに広尾のマンションには、僕の別れて間もない女の残り香がするのかも知れない。
それよりも、環は月島が気にいっているようで、時間があれば墨田川沿いを散歩し、二人で西仲商店街の店を探索した。
二人の時間は、新しい歩みとして刻まれ始めてはいたが、それでも時折環が物干し台に座りながら、暫く携帯を見詰めていることが気になっていた。
夏の酷暑も残暑に変わり、物干し台には短い命を全うした昆虫達の死骸が目立ち始め、秋の気配を告げていた。


           この続きは最終章へ・・・


 
| Walkin' | 22:53 | comments(0) | - |
由比ヶ浜からの風 <第四章> 月島川に広がる波紋
 

       


                  由比ヶ浜からの風

                <第四章>

                                        月島川に広がる波紋



一月ぶりに工房を訪ねてきた環は、男と同棲をしていることを僕に告白したが、彼とは別れるつもりでいるといった。
それならば僕にもチャンスがあると考えたが、環の揺れ動く心も同時に感じ取ってしまった。
あの夜隅田川のほとりで「部屋、この辺で探そうかな・・・」とつぶやいた環に「工房の上の部屋、空いてるよ」と、喉元まで言葉が出たが口には出さなかった。
というか出せなかったが正解だろう。
それというのも、環は彼との話しで、眼に涙を浮かべるほど傷ついているのに、好意からとはいえ、それではまるで弱みに付け込むハイエナのような気がしたからだ。
まあ裏を返せば、自分にそれだけ後ろめたさがあったということだが。
あれから環は引越し費用を貯めなくてはと、昼間のアルバイトに加え、夜のアルバイトも始めた。
もともと埼玉の実家には同棲していることは秘密だったらしく、引越し費用を頼るわけにもいかないとのことだった。
今の小田急線豪徳寺の1Dkマンションは、もともとは環が借りていたところに彼が転がり込んできたらしいが、別れ話は環からいい出しただけに、自ら出て行かなければ先には進めないと判断したからだ。
夜のバイトと聞いた時は水商売かと思ったが、新宿のファースト・フード店を選んだらしい。
環はそんな忙しい合間をぬっても、時折工房に現れていた。
それでも風鈴作り以来なにかを作りたいとはいわず、黙って汗みどろの僕の作業を見続けるだけだったが、その姿はまるで思考回路が止まっているようにも見えた。
時折僕が声を掛けても「う〜ん!?」と訳の分からない返事をしては帰っていった。
季節はすでに梅雨に入り、その日もぶ厚い雨雲が垂れ下がり、断続的に激しい雨が降りそそぐ不安定な空だったが、夕方になり「さっき止んでたのに!」と、びしょぬれの環が工房に現れた。
「傘なかったの?」
「だって・・・」
半泣きの環は、コンビニの袋を手に肩を落として身動きせずに佇んだ。
僕は窯から出したガラスを戻し、工房の奥の風呂場からタオルを取ると、環に向かって投げたが、環はタオルを受け止めようとはせず佇んでいたため、タオルは環の頭に引っ掛かるように覆いかぶさった。
僕は笑いをこらえながら環の手からコンビニのビニール袋を取り上げた。
環は「うえ〜ん」と泣きまねをしながらタオルで頭を拭き始めたが、ボーダー柄のタンク・トップの揺れた胸の谷間に、弾けるように雨の雫が流れ落ちていった。
僕がビニール袋をテーブルに置きながら「夜のバイトは?」
と聞くと「今日は休んだ・・・」と、横に束ねた髪を拭きながらぶっきらぼうに答えた。
「そうなんだ・・」
「それ、ビール」
テーブルに置いたコンビニの袋の中には、冷えた六個パックの缶ビールが入っていた。
僕は冷蔵庫から自分で作った薄口の幾何学模様のタンブラーを二つ取り出したが、流石に窯のある一階は梅雨の訪れとともに蒸し暑さが増していたため、僕はいつでも暑さから避難ができるように空調がドライになっている二階の部屋へ、環を初めて案内した。
「仕事は?邪魔した?」
階段の途中で申し訳なさそうな環の声が背中を押した。
「いや、今日はもういいんだ」
二階は狭い六畳だが、物干し台へ出るガラスの引き戸の前が一畳ほどの板張りの床になっているため広く感じた。
畳の上にはグレーのカーペットをひきつめ、三人は座れる革張りの黒いソファーとリクライニングになる同じ革張りの椅子が一つと、その間には長方形の大き目のガラス・テーブルが置かれていた。壁は白い漆喰だが壁際には棚も無く、TVもオーディオも置いていない殺風景な部屋だ。
それでも正面の物干し台へ出るガラスの引き戸の板の間に置かれた僕の作品が、ボヘミアンガラスのように、外光を取りこみ神々しい光が部屋の中に乱反射していた。
「素敵な部屋!」といいながら、環は珍しく僕の作品の前に座り暫く見つめた後、物干し台へ出るガラスの引き戸にへばりつき外の景色を見ていた。
物干し台からは、雨に打たれる葉桜の染井吉野と月島川に係留している屋形船が見えていた。
「ピザでもとろうか?」
「うん・・・」
環は外を見たまま返事をした。
「ドミノだけど、なににする?」
僕は一階に置いてあるドミノのメニューを取りに行こうとしたがその時環は「私ブルックリン・アンチョビ&オリーブ!」
と大きな声を張り上げ振り返った。
「速水さんは?」
僕は環のオーダーに、一階には降りずに携帯でドミノを検索すると、環はうれしそうに僕に近寄り僕の携帯を取りあげた。
「そうだな〜・・・」
普段あまりピザを頼まない僕は、メニューを見なければ決められなかった。
「じゃ〜クイーン・マルゲリータ。ね!」
僕が黙ってうなづくと「もしもし!オーダーです!」
環は大きな声で僕から住所を聞き出しながら注文をしていた。
「楽しいね!・・・冷蔵庫になにかあれば私が作るのに、今度は作りに来るね」
やむ気配のない雨が、再び激しい音を立て物干し台に置かれた観葉植物の葉を揺らしていた。
「それにしても、二階にこんな素敵な部屋があったんだね〜・・階段の上はどうなっているのか気になってたんだ・・」
環はもう一度部屋を見渡し、肩にタオルを掛けたままリクライニングの椅子に沈み込んだ。
「濡れてて寒くない?」
「大丈夫」
そういいながら両膝を抱え込んだ。
僕はドキっとしたが、今日はタイト・スカートではなくデニムのショート・パンツだった。
「遅くなった時に寝られるようにね。このソファーはベットになるんだよ・・でもほとんど使ってないけどね」
僕は座っているソファーを叩いた。
「広尾のマンションに住んでるんでしょ?でもここもったいないね〜!」
このときまた「ここに住んだら」と口元まで出かかった。
互いに二缶目のビールを開ける頃にはピザも届いていた。
テーブルに置かれたピザの箱を開けると、ふくよかな香りが鼻に抜け環は「わ〜い!」と両手を掲げておどけて見せた。
環はピザを頬張りながら、とりとめのないバイト先のお客の話しをはじめていた。
新宿のファースト・フード店の夜は、当然のように朝まで粘る客から、どう見ても不自然な親子のようなカップル。そしてメニューを全部などとからかう酔っ払いまで、少し怖いがさまざまな人間の縮図が見えて面白いと、いつものように言葉をかみ締めるように話していたが、僕は環の少し舌を出す食べ方が妙に淫靡に見え、ぼくの悦楽の神経細胞は活発に電流を流し続けはじめ、環の話はどこか上の空で聞いていた。
それから美大の友達の話しなどに移り、その夜環はいつになく饒舌だった。
そして、大江戸線の終電まじかになっても、環は帰る素振りをみせなかった。
引越費用を貯めている環にとって、月島から豪徳寺までタクシーで帰るには遠過ぎる距離だ。
僕はタクシー代を渡してもいいとは思っていたが「大丈夫?」と、いまだに同棲している状態に気づかった。
「なにが?」
環はとぼけていた。
「ほら、彼うるさいんだろ?」
僕はあえて終電のことではなく、束縛が激しいといっていた、彼のことに話を振った。
「今日は友達と遊ぶっていってあるし・・大丈夫・・最近あきらめたみたいだし」
「そう・・・」
僕はビールを一気にあおり、新たなビールをグラスに注いだ。
環も空いたグラスを黙って差し出した。
彼があきらめたとは、環が他に好きな人ができてもいいということなのか。
僕はいまだ環から、彼と別れる本当の理由を聞いてはいなかったが、少なくとも今夜の環の覚悟を受け止めるためにも、これ以上彼の話をするのはやめた。
すでに闇に覆われた外は雨が止み、風雨に揺れていた物干し台の植物からは、滴り落ちる雫が月明かりに光った。
二人の間に沈黙が走った。
僕はいたたまれずにグラスを片手に立ち上がると、物干し台のガラスの引き戸を開けた。
雨上がりの草木の蒸した匂いと、へばりつくような空気が流れ込んできた。
「雨やんだな〜」
僕は胸の鼓動を悟られないようにつぶやいた。
するとその時、背中に圧迫された体温を感じた。
環が僕の背中に体を預けてきたのだ。
僕は体中の血が逆流したかのように暫く動けなかったが、ゆっくりと振り向き、環の鍛え上げたようなくびれた腰に手を回し引き寄せた。
そして軽く唇を重ねてから、環の左頬に右手を添えもう一度唇を重ねた。
僕達はまるでなにかを確認をするかのように互いに見詰めあったが、環はゆっくりと眼を閉じ、僕の背中にまわした腕に力を入れた。
それから環は激しく何度も僕の唇を奪い、僕の官能を刺激し続けた。
僕は環を抱いたままソファーに押し戻し、グラスをテーブルに置くと、タックトップの下に手を入れた。
環のふくよかな温もりが、僕の指先から体中に伝わって来た。
堰を切った流れは止められず、環のきめ細かな肌が薄っすらと汗ばみ、弾けるような体は必要に絡みついた。
僕らは、現実のわずらわしさを吐き出すように激しく求め合った。
そして環が絶頂に入ったとき、僕の背中に激痛が走った。
環が僕の背中に爪を立てた「イツ〜」思わず声が洩れたが、環の恍惚の声にかき消された。

眼が覚めると環の姿はなく、テーブルの上にメモが置かれてあった。
      <バイトに行きます!お仕事頑張ってね>
僕はメモを持ったまま物干し台へ出た。
空は梅雨の終わりを告げる澄んだ青空に覆われ、風に舞った木の葉が目黒川に波紋を広げた。

それから10日ほどが過ぎ、依頼されていた照明器具も色鮮やかに仕上がり、僕の蒸し暑さとの戦いにも一区切りができた。
僕は環にバイトの次の休みを聞いたが、友達と海に行くとのことだった。
「そうなんだ・・どこの海?」
「鎌倉の由比ヶ浜・・ごめんね、会えなくて」
「いや、いいんだけど・・・僕も行ってみようかな!ほら、バイクも乗りたいし」
「え!・・・ごめん、彼も一緒なんだ。二人じゃないよ大勢で、ほら彼の友達はわたし達が別れることまだ知らないから・・」
僕は少し動揺したが、それでもなぜか嫉妬心は浮かばなかった。
「あ〜そうなんだ・・どうせほら、あんな広い由比ヶ浜じゃ見つけられないよ・・それに行くと決めたわけじゃないしね・・」
「うん・・・」
環の少し目じりの下がった悲しそうな顔が浮かんだ。


              この続きはまた・・・
     


                        
 
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由比ヶ浜からの風 <第三章> 蛇腹提灯に灯がともり・・・
           


                  由比ヶ浜からの風

                <第三章>

              蛇腹提灯に灯がともり・・・


月島の工房にも五月の爽やかな川風が吹きぬけはじめたが、環からは風鈴を作りに来て以来なにも連絡はなかった。
僕も依頼された作品作りに追われ、バイクでのツーリングには絶好の季節にもかかわらず、せいぜい住まいの広尾との通勤で満足せざるを得ない状況が続いていた。
そしてその夜も、作業に一区切りをつけ、夕食を月島で食べるか、広尾に帰ろうかを考えていた時だった。
レディーガガのバッド・ロマンスの着メロが鳴り響いた。
環からのメールだった。
<あれ依頼お礼もしないでごめんなさい。これから伺ってもかまいませんか?お仕事の邪魔になりませんか?>
僕は二度読み直しながら少し胸が高鳴った。
<仕事は終わったのですが。今どちらですか?>
<今月島駅です>
あれからすでに一ヶ月ほどにもなるが、始めて環が工房に現れた時の姿が鮮明に蘇り、直ぐにレスを送った。
<これから何か食べに出よう思っているんですが、付き合ってもらえますか?>
<はい!>
環からのレスも早かった。
<では月島西仲通り商店街で待ち合わせましょうか・・>
僕は工房から商店街へ歩き始めたが、環は駅から商店街に来るため、ちょうど商店街の中ほどで会えるのではと思った。
携帯を握り締めたまま商店街に向かう道すがら、僕の顔は緩んでいた。
長い商店街は、五月の風に揺れる街路樹と、立ち並ぶ店の明かりに行きかう人々の賑わいが浮き上がり、より僕の心を弾ませたが、商店街の中ほどの、三番街の十字路に差し掛かった時だった。
人の流れの隙間に見え隠れする、スレンダーな環の姿が眼に入った。
今夜はタイト・スカートのしたにはレギンスははかず、小さな膝小僧が見えていた。
環も僕に気づき、右手を大きく振りながら躍動感溢れる足で駆け出してきた。
僕も軽く右手を上げた。
環は僕の回りを一周し、小さく息を切らしながら僕の前に立った。
「速水さん!ほんとうにお礼の連絡もしないでごめんなさい」
「いや〜・・・もんじゃ、食べたいですか?」
「え!だって速水さん・・」
「いや!僕は他のもの食べますから大丈夫ですよ。ただ君が月島まで来てもんじゃ食べないんじゃつまらないでしょ〜?」
「はい!」
うりざね顔の環の眼が、七福神の布袋様のように嬉しそうに微笑んだ。
僕は商店街に居並ぶ店ではなく、以前から気になっていた路地裏の小さな店に向かった。
後ろからついて来る環は、観葉植物や花の植木鉢が所狭しと置かれた細い路地裏の道に興味を示し「こういうの好き!」といいながらを辺りを見回していた。
古い木造一軒家のその店も、入り口が隠れるほど鉢植えの植物と花が整然と置かれ、お好み焼きと書かれた蛇腹提灯の灯が目印になっていた。
僕は色あせたのれんをかいくぐり、木で縁取られた曇りガラスの引き戸を覗きこむように開けた。
すると「いらっしゃい!」と威勢のいい声とともに、着物に白い割烹着を身につけた小太りのおばさんが、入り口近くのテーブルを指しながら「こちらにどうぞ」と勧めた。
店内の壁は、最近改装したのか外観とは違い真新しい茶色い木目の化粧版で、北側であろう壁の上には神棚と大きな熊手が飾られていた。
そして、四つある鉄板が埋め込まれた四人掛けテーブルの二つは、すでに三人組みの女性と一組の若いカップルで埋まり、奥の小さなカウンターには中年の女性が一人座り、厨房で働くおじさんと話をしていた。
「はい、なにお飲みになりますか?生ビール?」
この店の女将さんであろうおばさんは、僕達が席に着くなり、さも選択権を与えてくれていたような口ぶりだが、当然生ビールだろうとの予測のもとに注文を聞いてきた。
僕はおばさんの思惑通りになるのには抵抗があったのだが、環の顔を見ると、環は黙ってうなずいていた。
「じゃ〜生で・・」
「はい、生二つね!中?大?」
僕はもう一度環の表情をうかがいながら「中で・・」と答えた。
結局おばさんに凱歌が上がったが、環は僕の顔を見ながら笑顔で肩をすぼめた。
僕も環につられて笑みがこぼれた。
おばさんはすばやく中ジョッキの生をテーブルに置くと「メニューは壁に下がってるので・・」
といって、僕と環の顔を見比べはじめた。
「君はなんのもんじゃがいいですか?」
「う〜ん・・・」
環が、壁にかかった10種類ほどのもんじゃに迷っていると、すかさずおばさんが「そうね〜定番はシーフード。お勧めはベビー・スターかしら」
「え!ベビー・スタ〜?」
僕も驚いて紙の短冊を見直すと、確かにベビー・スターと書かれた短冊が眼に入った。
環も眼を見開いていた。
「歯ごたえね、サクサクして美味しいわよ」
おばさんは得意げな顔だったが、環は両方食べたそうにまた「う〜ん」と悩んでいた。
「両方たのもうよ」
僕は意を決して助け舟を出した。
「二つは・・」
環が遠慮気味に囁くと「あら!お二人でなら大丈夫でしょ〜」
おばさんの横槍だったが、環は僕が食べないと思い悩んでいたのだ。
しかし、そんなこととは知らないおばさんは、当然二人でもんじゃを食べるものだと思い込んでいた。
「大丈夫、僕も手伝うから・・・」と、僕も意を決した。
「え〜大丈夫です?」
といいながらも環は嬉しそうだった。
僕はついにもんじゃを食べる破目になったかと観念しながらも、いざという為に焼きそばを注文し、明太子と大根おろしをビールのあてに頼んだ。
「じゃ〜久しぶりに」
「はい、久しぶりに!」
僕と環は生のジョッキを掲げ合わせて飲みだしたが、環は肩をすぼめながら、顔の中心に筋肉を集中させ「う〜ん、おいしい!」とうなった。
僕の脳裏に、目黒川のお花見のときの環が鮮明に蘇った。
そんな環の顔を改めて見ると、肌つやのいい割には少し疲れているような表情が気になった。
「速水さん、本当にすいませんでした・・・」
「いや〜僕も忙しかったし、気にしてないから」
本当は何度か環にメールをしよと迷ったことがあったのだが、そのことは口には出さなかった。
「で、君は元気だったの?」
「はい、元気でしたよ」
「そう?それならいいんだけど・・・」
「なんでです?元気そうじゃないですか?」
環は食い入るような目で僕を見た。
「いや、そんなことはないよ」
僕はたまらず目線をはずした。
「へんなの・・それより!速水さん君はやめてください。た・ま・きでいいですから」
「そう・・わかった。そうするよ」
「はい、た・ま・きでお願いします」
僕は、環の明るさの中にも、また突然現れたことなど、何かが引っかかっていたのだが、そんな憶測も忘れさるほどカウンターに座っていたおばさんと厨房で働くおやじさんとの三人の会話が店の中に木霊していた。
会話の内容から、やはりこの割烹着を着たおばさんが店の女将さんであり、厨房のおやじさんとは夫婦のようで、どうもカウンターに座るおばさんは女将さんとは姉妹のようであった。
三人は親戚の葬儀について話しているようであったが、話の腰を折りながら女将さんがもんじゃの具材を運んできた。
「お待たせしました!どう?作り方は分かりますか?」
「は〜・・」
女将さんの問いかけに、僕は鉄板を見詰めどうしていいものか躊躇していたが、間髪を入れず環が「わたしが!」と、環は僕の動揺を見越してか、まずシーフードの具材を取ると、イッキに半分以上を鉄板に流し入れた。
鉄板の上に広がった生地は、ジュウジュウと激しい音を立てながら収拾がつかないほど大きく広がっていった。
その時女将さんの大きな声が飛んだ。
「なにしてるの!そんなにいっぺんに入れたんじゃだめだよ!なんだ知らないじゃないの〜!」
環は女将さんの大きな声に肩をすぼめ、子供のように脅えた顔をしていた。
「すいません!初めてなんです」
僕は女将さんを許しを請うように見詰めた。
「しょうがないね〜知ったかぶりはだめだよ〜」
笑いを抑えた、周りのお客の視線が痛かった。
おばさんは大きなへらを取ると広がってしまった具材を手早くまとめ、何とか円盤状にまとめてくれたが、やはり僕はべちゃべちゃのもんじゃが鉄板の上でグツグツと泡を立てている様に、これを食べるのかと思うと、やはり少し腰が引けていた。
「最初はね、具だけ半分入れてドーナツ状の土手を先に作るの、それから真ん中に生地を半分入れて、生地がグツグツしてきたら混ぜて、残りはまた同じように繰り返すの・・わかった?」
「はい・・・」
環は小さな声でうなずいたが、まるで小さな子供のようでもあった。
「もう少しして回りがパリパリになってきたら、そのはがしで取って食べるのよ・・その大きなへらで食べちゃだめだよ」
と、小さなはがしといわれる金属のへらを指差した。
「はい」
同時に返事をした僕と環ははがしを取り、準備に入ったがそこでまた女将さんの声が飛んだ。
「そんな持ち方じゃだめだよ!こうして人差し指をまっすぐにして、はがしの下を親指で抑えるの、ね!後は柄を三本の指でこうして持つの。そしたらば、人差し指で押さえながら端から剥がすように取って食べる・・分かった?」
女将さんは僕らの傍に仁王立ちになっていたが、悲しいかな僕の脳裏には、廊下に立たされた小学校の姿が蘇っていた。
僕は恐る恐る焦げ目のできた端をはがしで取りもんじゃを口にしたのだったが、思いのほかのあさりや桜海老の香ばしさと、焦げ目の美味しさに驚いた。
そして環の土手作りがうまくなったベビー・スターにいたっては、サクサクの歯ごたえと青海苔の香りが絶妙なハーモニーを築いていた。
「速水さん、食わず嫌いだったんですね」
環は、僕の顔を上目遣いに覗き込んできた。
僕は言葉には出さなかったが、苦笑いで答えた。
こうして僕のもんじゃ初体験と、環の本場月島のもんじゃ作りが、ことのほか僕達を和やかにし、焼きそばを食べる頃には、僕も環も芋焼酎のロックを飲みだしていた。
そして、環のお酒の強さにも驚いたが、環は酔うほどにたれ目ぎみの眼と少し開き気味の口元が妖艶さをかもし出し、胸につかえていたものが噴出し始めた。
「速水さんって、付き合っている方いるんでしょ?」
「いや〜今はいないよ」
僕は躊躇無く答えたが「うっそ〜!・・・」環は指を回しながら僕を刺した。
「いや、ほんとうだよ」
僕は前の年の暮れに、二年程付き合っていた人と別れていた。
画商の仕事をしていた彼女は海外に行くことも多かったのだが、そんなストレスの溜まった彼女の気持ちを、僕が受け入れる余裕がなかったのが原因だった。
「そうなんだ・・・速水さん聞いてほしいことがあるんですけど・・・」
突然環は神妙な顔になった。
「うん・・聞くよ」
余裕のありそうな返事をしたものの、僕の頭を一瞬にして不安な気持ちが取り巻いた。
「私ね、今同棲しているんですけど・・」
やはり男のことだった。
「でもね、同棲は解消しようと思っているんです・・ていうか私が出て行くつもりなんですけど」
「そうなんだ・・」
環ほど魅力があれば男の一人ぐらいは当然いるとは思っていたが、まさか同棲しているとまでは考えていなかった。
しかし僕は、いまどき珍しいことでもないかと妙に納得しながらも、環の男との別れ話には、なぜか安堵している自分がいた。
「それでもめていて・・それで速水さんに連絡できなくて・・・」
「もめてるって、大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫。彼も分かってくれたから・・・」
環の眼に薄っすらと涙が浮かんで見えた。
僕は周りの目が気になり「ねえ、ここ出ようか?」と小声で伝えた。
環は黙ってうなずいた。
お勘定を済ますと「ありがとうございました!どうだったの月島のもんじゃは?」
女将さんは、うつむきかげんの環に向かって声を掛けた。
「はい、とても美味しかったです!また来ます」
環は顔を上げ、涙目を笑顔で隠した。
「ありがとうございます!」
厨房から聞こえてきた親父さんの言葉にも送られ僕達は店を出ると、僕は月島駅とは反対の工房のほうへ向かい、道すがら二人で自販機でお茶を買うと、そのまま隅田川沿いの遊歩道へ出た。
広々とした隅田川から、川面を抜ける風がお酒で火照った顔をかすめ、暗闇の隅田川の上流にはスカイ・ツリーが光に包まれていた。
「あ!スカイ・ツリーだよね!綺麗・・・」
環は川べりまで歩んだ。
僕は街路灯の下のベンチに座り、髪が風にたなびく環の後姿を見ながら、環がまだ彼のことを好きなのだろうと思った。
暫くして環はおもむろに僕の隣りに座ると「部屋、この辺で探そうかな・・・」
と、対岸の灯りを見つめながらつぶやいた。


                    この続きはまた・・・
| Walkin' | 18:28 | comments(0) | - |
由比ケ浜からの風 <第二章> 夜の川面の花筏
          
                

                                  由比ヶ浜からの風

             <第二章>

            夜の川面の花筏


それは突然だった。
「こんにちは!」
工房のガラス窓越しに声が聞こえ、振り返ると環が小さく手を振っていた。
環は、今日も膝上10センチほどのグレーのタイト・スカートに茶色のローファーの靴を履き、上はTシャツのうえにGジャンをはおり、
麻素材で紺地に白い小さな水玉柄の大きなスカーフを首に巻きつけていた。
そして、夜は未だ花冷えの日が続いているためか、タイトスカートの下には紫のレギンスをはいていたため、小さな膝小僧は隠れていた。
僕は、予想だにしなかった環の訪問に少し戸惑いながらも「や〜ここ、すぐに分かりましたか?」と冷静さを装った。
「ちょっと迷いました・・この辺もんじゃで有名な所ですよね?」
「そう、月島駅の方に沢山お店あったでしょ〜もんじゃ好きですか?」
「もちろん好きです!・・けど、下北のお好み焼き屋さんでしか食べたことないですけど・・」
環は少し困った顔をした。
「・・あ〜べつにいいんですよ、月島のもんじゃの自慢しているわけじゃないから・・というか僕は苦手で・・」
「え〜そうなんですか・・なんで?」
環は興味深そうに僕の顔をのぞき見ていた。
「え〜だって、あれ、べちゃべちゃしてるでしょ・・あれがね〜東京に出てきて驚きましたよ・・都会の人はもっと、まともなもの食べていると思っていたから。僕は長野の田舎者ですけど、もう少しちゃんとしたもの食べてましたから」
環はクスッと笑った。 
僕の工房は隅田川に架かる勝鬨橋を渡った月島にあるのだが、元来このあたりは埋め立て地であり、下町情緒溢れる場所だった。
しかし今ではリバーサイドなどとうたう高層マンションが乱立し、町の景観は様変わりしているが、それでも一歩裏通りに入れば、古い木造住宅が軒を並べ、狭い路地には鉢植えの植物が所狭しと置かれている。
これはクーラーなどなかった頃、風通しのいい路地に水を打ち涼を取る下町風情の町並みのなごりだ。
そして、月島西仲通り商店街には、お好み焼きともんじゃ焼きを売りにした店が連なり、今では全国から人が訪れるほどの名所だ。
そんな月島にある工房は、隅田川から小さな水門で守られた桜並木の月島川の傍にあり、元車の修理工場だった二階建ての木造住宅だが、二階には六畳ほどの和室と物干し場があり、かすかに重油の匂いは残っているが、ガランとした広さの一階が工房としては使い勝手が良かった。
「川がそばで、いいとこですね・・」
「そう・・工房は暑いから、少しでも川風が入るといいかなと思ってね」
環は工房に置かれている僕の作品を、色々な角度から品定めをするかのように見詰めながら、工房の中を一周すると僕の前に立った。
そして特別感想をいうでもなく「風鈴、作れますか?」
と、首をかしげた。
「あ〜風鈴ね。作ってみる?」
環は嬉しそうにうなずいた。
僕は1300度にもなる炉の火を確かめ、普段作品作りに使うスチールの長い棒ではなく、共竿と呼ばれる130センチほどのガラスでできたストロー状の竿を棚の奥から取り出した。
久しぶりに使う竿だったが、なんだか新鮮な感覚にとらわれた。
僕はその共竿の先に、炉の中からとろけた飴のようなガラスを、口玉という500円玉ほどの大きさに巻き取ると、少しだけ空気を吹き込んだ。
それからその上に、もう一度溶けたガラスを付け、また少し膨らませると内側から針金で糸を通す穴を開けけ、共竿を回しながら一気に膨らました。
そして程よく膨らんだところで、口玉のところを包丁で切り落とした。
「すごい!」
僕の一連の動きに、環は両手を合わせながら歓喜の声を上げた。
「やって見る?」
「やるやる!」
環の眼は輝いていた。
僕は共竿に少し溶けたガラスを巻き取り、環に渡した。
「はい、吹き込んで・・」
当然だが環は加減が分からず少し吹いたが、弱すぎたためガラスに変化は見られず「もう少し強く」との僕の言葉に、環は頬を膨らませ一気に吹いた。
口玉のガラスは脇から一気に風船状態に膨らみシャリっと乾いた音をたて崩れ落ちた。
「キャ〜!」
と奇声を発しながらも、環はすぐに笑い転げ、もう一度と人差し指をを立てた。
二度目は針金を通すところまでは順調に行ったが、穴を開けたため、少し強めに吹かなくてはならず、その感覚に苦労していたが、四度目には最後の膨らましまで順調に行き、程よい大きさに膨らました。
そして最後は、僕が口玉のところを切り落とした。
「やった〜!でもここは削らないんですか?」
環は切り落とし口のギザギザを指差した。
「あ〜そこはそのままギザギザのほうが、いい音色がするんだよ」
「な〜るほど・・・」
「さ〜後は絵付けだね。風鈴は内側に絵付けをするんだよ」
「な〜るほど・・・」
環の判で押したようなうなづきに、僕は笑みがこぼれたが、環は意に介さず筆を取った。
そしてテーブルに着くと、真剣な眼差しで風鈴を眺めながら集中し始めた。
僕はそんな環を横目に、自分の作品作りに戻った。
暫くすると「すいません!もう一つ膨らましてもいいですか?」
環は絵付けが気に入らなかったのか、悲しげな表情で頼みこんできた。
「あ〜かまわないけど・・大丈夫?」
「はい」
環は、僕には見えないように後ろ手に絵付けを失敗した風鈴を隠していた。
僕はそれを見て見ぬふりで自分の作業に戻ったのだが、後ろでカシャンんと、風鈴を壊す音が聞こえた。
暫くガラスを削るグラインダーの音が工房の中に響き渡り、ゴーグルとマスクをした僕には、環の気配を感じることはできなかったが、暫くしてゴーグルをはずし絵付けの作業台を見ると、そこに環の姿はなくテーブルの上には絵付けを終えた風鈴が置いてあった。
僕はおもむろに立ち上がりその風鈴を手に取った。
風鈴は色とりどりに細かく絵付けされ、ほとんど余白がないほどで、まるで水を入れたヨーヨーのようでもあったが、初めて絵付けする人はシンプルな絵を描くものだが、これほど隙間なく絵付けする人は珍しく、それでいて色合いはロートレックの絵のように爽やか色彩に飛んでいた。
僕は風鈴に紐を通し完成させた。
シャリリーン!爽やかな絵に命が吹き込まれた。
「いい音・・」
後ろに環が立っていた。
「はい」
僕は環に風鈴を手渡した。
環は風鈴を高々と掲げながら工房の外へ出ると「川に行ってきま〜す!」
といってまた姿を消した。
僕は環の行動に不可思議さを感じながらも、そんなところに惹かれている自分がいた。
それから数時間、僕は作業に集中していたため環のことは頭から離れていたが、外が夕闇に包まれても環は戻ってはこなかった。
僕は環が川に行くといったことを思い出し、月島川の桜並木を抜け、大きな隅田川沿いの遊歩道まで足を運んだが、そこにも環の姿はなかった。
その時、ポケットの携帯が振動した。
環からのメールだ。
 
<今日はありがとうございました!お仕事の邪魔になるので、今日はこのまま失礼します>

夜の川面に対岸の光がゆれ、そよぐ波間に桜の花筏が流れていた。


    この続きはまた・・・

 
| Walkin' | 16:26 | comments(0) | - |
由比ケ浜からの風 <第一章」> 風鈴のねに揺れた染井吉野

      

      
                            由比ヶ浜からの風

                               <第一章>

             風鈴のねに揺れた染井吉野

           

朝日に映し出された東京の空は、青が優しく浮き上がっていたが、キラキラと光輝くビルの窓ガラスは暑さの前兆だった。
それでも海に行くことにはなんの躊躇もなく、僕は体重をバイクのキック・スターターにかけた。
ドルルン・ドッドッドッドッ単気筒エンジンの音を、POSHのトライアンフ・マフラーが小気味よく奏ではじめると、僕の体の芯までもが揺るぎはじめた。
愛車はすこぶる機嫌がいいようだ。
そう、このヤマハのSR400はエンジンを掛けるのにキーでのセル・モーターはなく、足でのキック式であるため、時折駄々をこねるときがあり、何度か体重をキックに乗せなくてはならず、ワン・キックでかかった時は妙な快感に包まれるのだ。
ドルルル〜ン・ドルルル〜ン、アクセルを二度絞ると僕の眠っていた脳は活性し、同時に未だ眠りから覚めぬ広尾の町の静寂さえも揺さぶってしまった。
僕は逸る気持ちを抑えながら愛車に跨り、腰から体中へ広がる振動に身震いしながら、一気に恵比寿を抜け駒沢通りを環八に向けアクセルを絞った。
速水亘(はやみ・わたる)39歳。ガラス工芸家。
遠のいた梅雨空の後は日差しが強く、ヘルメットの中は息苦しささえ感じるが、ひとたび走りだせば体を取り巻く重苦しい空気は、たちどころに心地のいい風へと変身した。
狭い駒沢通りの車列をすり抜け、環七を渡るとすぐに駒沢公園が広がる。
すでに公園には、のどかな休日の朝を満喫するマラソンランナーやバイコロジーにふける人達が姿を見せ、思いのほか人の多さに驚かされた。
そして緩やかなアップ・ダウンを繰り返しながら環八を左折すると、すぐに第三京浜の標識が眼に入った。
何台もの車が左車線に流れ、第三京浜の入り口に吸い込まれて行ったが、僕も流れに乗りながらギヤーを落とすと、息を殺し左ターンに車体を倒した。
そして270度近くのアールに耐えると、シフトアップをしながら体制を立て直しイッキにアクセルを絞った。
視界には多摩川を渡る橋が広がり、速度計は直ぐに100キロをこえたが、今度は多摩川を吹き抜ける強い横風にスライドしそうになるSRを、僕は必死に体を絞り込みながら渡りきった。
そして、ふ〜っと息抜きをしながら体の力を抜くと、SRも何事もなかったかのように安定し、アクセルは巡航速度に戻した。

トルクの大きな単気筒エンジンが、時を刻むように音を響かせはじめると、今度は心地のいい緊張感が体を支配し、まさに僕とSRは人馬一体となっていた。
緩やかな第三京浜で脳と体の緊張を徐々にほぐしながら狩場ジャンクションを抜け、SRは横浜横須賀道路(通称横横)へ入った。
三浦半島を縦に山間部を抜ける横横は、緑濃い木々に囲まれ、緩やかなカーブとほどほどのアップダウンがバイク走行には打って付けのロケーションだ。
そして、なんといっても風の変化に感動する。
都会のヒート・アイランド現象の暑い風に覆われた第三京浜から、横横は木々の間を抜けた清々しい風に変わるからだ。
敏感に風の変化を感じられるバイクならではの快感だ。
僕は渋滞ぎみの車列の横を慎重にすり抜けながら、程なく見える海の景色に思いを馳せ、葉山インターで横横を降りた。
そして、横須賀と葉山を横断している道を右折し葉山に向い、途中の湘南国際センターを左折しながらひと山越すと、目の前は海岸線に出るトンネルだ。
トンネルを吹き抜けてくる風が、潮の匂いを運んでいる。
紫外線になれた眼は一瞬光を奪われ暗闇とかすが、前方には半円形の光がキラキラと輝く海を映し出した。
海岸道路の134号線の信号が変わり、僕は上体をおもいっきり伸ばしながら、目の前に広がる相模湾からの潮風を吸い込んだ。
東京の雑踏から一時間。新鮮な創作意欲を掻き立てる手段としても、やはり来て良かったといつも思う瞬間だ。
青に変わった信号にハンドルを左に切ると、すぐ右手に立石・秋谷の海岸が広がる。
立石といえば、砂浜から突き出る12メートルの岩があり、海の彼方に見える夕映えの富士山とのコントラストは、あの安藤広重も好んだという絶景の場所だ。
僕はその先の緩やかな坂を上がり、佐島マリーナ入り口の小さな路地を右折した。
住宅街の曲がりくねりった細い坂道を下りきると、人影もまばらな小さな芦名海岸に出た。
僕はSRの速度を落としたまま、右手に広がる海を見ながら海沿いの道を佐島マリーナへと向かった。
しかし、視界の気持ちよさとは裏腹に速度を落としているため、股下からは頑張ったエンジンの熱気が、僕の体力を消耗させるように立ち上ってきた。
夏のバイクの洗礼だ。
そして佐島マリーナへ入る狭い路地を右に曲がると、正面に佐島公園の入り口が見えた。
マリーナのゲートは公園を左に曲がったところだが、僕は佐島マリーナに来たわけではなく、この小さな佐島公園が目的地なのだ。
僕は公園入り口の木陰にSRを停めヘルメットを脱いだ。
思わずふ〜っと息を吐き、ヘルメットからの開放感に浸ったが、今度はギラギラとした紫外線が容赦なく降り注ぎ、汗でへばりついているジーンズの不快感が増した。
僕はすぐにでも脱ぎ捨てたい気分を押さえ、とりあえずアロハ風のシャツを脱ぎ捨て、Tシャツ姿で目的の佐島公園に入った。
入り口を入ると、右手に小さな砂浜のある入り江が広がるがここも人はまばらだ。
僕はその先の岩場まで、砂に靴をとられながら向かった。
岩場では数人の子供達が、バケツ片手に岩の間を覗き込み、小さな網で小魚をすくっていたが、こんな光景を見ると幼い頃が過るものだ。
長野の山奥で育った僕は海ではなく、川での魚取りが蘇るが、海への憧れは果てしなく強く、大きな船の船長になるのがその頃の夢だった。
佐島公園は周囲一キロ程の天神島であり、自然植物を管理しているところでもあるが、此処は知る人ぞ知るで、休日とはいえほとんどが地元の人であり、安らかな休息地になっている。
僕は先端の岩場まで歩き、岩場の手前に生える芝生で靴を脱ぐと、Tシャツとジーンズも脱ぎ捨てた。
ジーンズの下にはトランクス型の海水パンツをはいてきていたのだ。
風に波立つ大海原は楕円に盛り上がり、広大なパノラマと化していた。
岩に弾ける波は無数のシャボン玉のように大空に弾け、沖を走る幾つものヨットの帆が力強く光輝いていた。
僕はTシャツを芝生に広げ大の字になった。
そして鳶が浮かぶ空を見上げながら、鎌倉の由比ヶ浜に思いを馳せた。
今日由比ヶ浜に吉沢環(よしざわたまき)が来ることを知っていたからだ。

吉沢環は、美大を卒業したが現在フリーター状態の25歳。
日本的なうりざね顔で、奥二重の眼尻は下がり気味だが、そこが妙に色っぽく、色白の顔にピンクの口紅が特徴的だった。
そして、160センチほどの背丈にタイトなミニスカートをはき、すらりとした足を誇らしげに出していた。
その上、その足をより強調するかのようにローファーの靴がアキレス腱を綺麗に魅せていた。
僕が環と知り合ったのは二ヶ月ほど前だが、美大の先輩でもあるアート・ディレクター佐々木氏主催の目黒川お花見パーティーの店だった。
僕はパーティー開始は6時からとのメールにまじめに行き着いたが、未だ人はまばらで、佐々木氏以外には顔見知りも見当たらなく、ワイン・グラスを片手に店のテラスへ出た。
川沿いの道は人が溢れ、道端では若者達が車座で酒盛りをしていたが、テラス席には花冷えの風がそよぎ、ライト・アップされた染井吉野の薄ピンクの花びらが、幻想的に漆黒の夜空に舞っていた。
毎年のことながら短い命を可憐に咲き誇るさまは、潔さを心情としていた日本人の心には、やはり染み入る風情だと、観賞に浸っていると「速水さん!」
背後から声を掛けられ振り向くと、佐々木氏の妻貴恵だった。
そして貴恵の後ろで、少し首を傾けながら僕を見ていたのが吉沢環だった。
「お久しぶりです」
僕は深々とお辞儀をし敬意を示した。
「ほんと、お元気でした?」
貴恵は如才無い笑顔で、僕の真意を掴みそうな眼差しをしていた。
「まあ〜何とか・・」
「な〜に若いのになんとかだなんて!・・ねえ速水さん紹介するは、お友達のお嬢さんなんだけど吉沢環ちゃん。この子ガラス工芸に興味があるらしいの・・環ちゃん、ガラス工芸家の速水さん」
「こんにちは・・じゃない、もう今晩はか」
環は貴恵の横に1歩でるなり、屈託のない笑顔でお辞儀をした。
「貴恵!」
その時店内から、佐々木氏が貴恵を呼ぶ声が聞こえた。
「は〜い!ごめんなさい・・じゃ〜速水さん、環ちゃんをよろしくね」
貴恵はそういい残すと環の肩に手をやり、なにやら無言で環に目配せをして店内へ消えた。
貴恵は中国人とのハーフで45歳ぐらいだと思うが、子供を二人も生みながらもスレンダーな体を保ち、元ファッション・モデルの面目躍如といわしめていた。
その上わがままな佐々木氏を手の平で遊ばせるほど、気丈でクレバーな人でもあった。
「座りませんか?」
僕は環に席を勧めた。
「はい・・」
「あ!なにか飲み物を持ってきましょうか?」
僕は環が手ぶらなことに気がつき自分のワイン・グラスをテーブルに置いた。
「大丈夫です!自分でとってきますから。速水さんはワインでいいですか?」
環はすばやく立ち上がり、僕のワインが残り少ないのを見て機転をきかせた。
「そう・・ありがとう」
環はストレートの長い髪を翻し、躍動感のある歩き方で店の中へ入った。
このとき少なからず僕の胸は高鳴ってはいた。
暫くして環は、ビールとワインを両手に持ちながら戻ってきた。
「すいません!ありがとう・・・じゃ〜よろしく」
「はい!かんぱ〜い!」
環の大きな声で僕達はグラスを合わせたが、環はビールをすばやく口にし「う〜ん、おいしい!」
と肩をすぼめながら、顔の筋肉を中心に集中させたような顔になった。
そんな仕草にしたたかさを感じないではなかったが、見るからに可愛さが勝っていた。
それから僕は、自分の工房で作品作りをしていることなどを話したが、環は女子美の美術学科を卒業した後、一度はデザイン事務所に就職したが、やりたいこととは違うことにいたたまれず二年程で辞めてしまったこと。
そして、今はフリーター状態であることなどを、ときおり夜桜に眼を移しながらゆっくりと話した。
僕は言葉を奥歯でかみ締めるような口調の環に、妙な色気を感じた。
「こんど工房に行ってもいいですか?」
「あ〜いつでも来てください・・」
「ガラスって繊細で面白そう・・私あれ!風鈴とか作ってみたい」
「あ〜風鈴ですか・・・」
僕は金属や土との融合によるガラスアートや照明器具を作っているので、風鈴と聞いて少し戸惑ったが深くは考えなかった。
しかしその時、澄み切った風鈴の音色が染井吉野を揺らした気がした。
それから環は、僕の作品について質問をした後、自分の美術や音楽そして映画などへの探究心の強さを前面に出し、ときおり僕にも興味の対象を聞いてはきたが、気がつけばまた環の話しへと戻り、僕はうなずくばかりだったが、それでも僕には心地のいい時が過ぎていた。
その後テラスには環の友達が集まりだし、僕は早々に若者の輪から引き上げ、店内の佐々木氏と談笑の後、環には挨拶はせずに10時頃には目黒川から引き上げた。
それから一週間ほどたった日のことだった。
吉沢環が工房に現れたのは。


         この続きはまた・・・


                                

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